伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話です。慰霊の精神というものは、靖国神社参拝以前の問題だとおもう。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

慰霊について

慰霊について

1.今年(2006年)の三月、岩波ホールで「死者の書」のロードショーを観賞して。

「死者の書」は私の生涯の師、折口信夫(昭28没)の原作で、同名の小説(昭13刊)があり、それを今回アニメ作者の川本喜八郎氏が映像化した。

死者の書

壬申の乱後、持統(じとう)女帝は、わが子草壁(くさかべ)皇子を皇太子に仕上げるために、夫の天武天皇の没後、天皇と姉の子で、人気のあつた大津皇子(おおつのみこ)に謀反の疑いをかけて死刑にしてしまう。大津皇子の亡骸は大和と河内の堺に立つ二上山頂の雄岳に葬られた。奈良時代、藤原南家(なんけ)の郎女(いらつめ)(中将姫)は二上山を前にした当麻(たいま)寺にこもり、蓮(はす)糸を紡いで曼陀羅を編む。郎女の愛の静かで暖かい析りによって、大津皇子の魂は塚の中でよみがえってくる。

彼(か)の人の眠りは、徐(しず)かに覚めて行った。
まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、
目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。
耳に伝ふ、やうに釆るのほ、水の垂れる音か。
たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、
おのずこ睫と睫とが離れて来る。

これが原作の小説「死者の書」の冒頭の文である。折口先生はカをこめてこの有名な文を書いたのであったが、死者の魂がよみがえるという設定は、この当時現実的な観念としては理解されにくく、いつか話題から消えて忘れ去られていった。

2.怨霊を静める…鎮魂の思想

しかしその後、梅原猛氏は、「隠された十字架」(昭47刊)という書で、法隆寺が無念の内に滅ぼされた聖徳太子一族の菩提を弔うために建てられた寺であるという仮説を立て、大きな賛否両論の波紋をまき起こしたのであったが、これもまた時期尚早として当時は十分に受け入れられず、その後は梅原氏の独自な学術世界を表すものとして、次第に多くの分野に浸透し理解されていったのである。

岡野弘彦氏は折口先生亡き後の最後の弟子である。氏は今回、人形アニメ「死者の書」を上映するにあたつて、「日本人の古来の死世観・霊魂観からすると、この世に恨みを残して死をとげた若い魂は、容易に浄化し得ない未完成霊として、後の世に崇しりをなすと信じられた。『死者の書』では大津皇子の魂は死後五十年ほどして塚の中でよみがえるという設定になっている。(南家郎女の古くて新しい宗教的な力は、大津皇子をはじめ世々の鎮まりがたい怨霊を鎮める、深く静かな祈りの浄化を示すのである。)

古事記の「やまとたける神話」も、保元・平治の物語もそしてもちろん「平家物語」も、琵琶を奏でながら村々をめぐって語る法師の平曲も、戦国のよが終って全国の村々に広がっていった念仏踊り、盆踊りも、みなその心の奥は、戦乱の中に果てた鎮まりがたい未完成霊を、後の世に生きる者が鎮めるための文学であり芸能である。

しかしその心の伝統も、近代百五十年、さらに戦後六十年の日本人の心からはかき消すように失せてしまった。「敗れた出雲の神も、源氏も、平家も、東軍も西軍も、そして二度の元寇の役の後には、元軍の死者の魂すらも共に鎮め祭った心深い日本人は、ついに会津も西郷以下の薩摩の青年や八甲田山の雪中演習の死者すら祭らない、政治的な小さな名目にとらわれる心浅い民となってしまった。」と解説している。

梅原猛氏の仮説は折口先生亡き後の同門学徒によって少しずつ受入れ、承認されていったが、その元は実は折口先生の鎮魂を中心とした学問の中にあったのである。

先生はその愛する弟子藤井春洋(はるみ)が硫黄島で戦死したことを知り、餐嗣子として能登一の宮の日本海を見渡せる砂丘に墓を建て、自身もその中に入ることによって、藤井氏の霊を弔らい、同時に今回太平洋戦争によつて戦没した多くの英霊を弔おうと願ったのである。

日米最後の決戦によって硫黄島で戦没した軍人の霊は未だに島の中をにさまよっていると聞く。これはそのままには放置できない大きな問題である。

戦後六十年を経ても、いまだに私たち戦後に残った日本人は、慰霊という当然やるべき戦後の処理を済ませていないのではないだろうが。その処理もせぬうちに次の時代に何時の間にか移ってしまったのである。

しかし思えば、こうした慰霊の事業は日本人のなすべき勤めであり、義務である。そしてこうした慰霊は靖国神社参拝以前の問題であリ、我々日本人の心の問題として処理していくべきものなのである。

2006/4/12