伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回はメデゥサの首です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

メデゥサの首

メデゥサの首

ゴルゴンゾーラという青かびの入ったイタリアのチーズがある。塩味はきついが、風味があって大変うまい。したがって値段も高い。

なぜこんな変わった名前をつけたのか最初はよく分からなかったか、ギリシャに旅行し、ギリシャの神話を読んでみてから、ようやく理解できるようになつた。

ゴルゴンというのは、ギリシャの神話に出てくる三人の妖怪の姉妹を指している。この姉妹は海の果てに住み、髪の毛は蛇となって常にのたうちまわり、歯は猪の牙のように鋭くとがり、(古代の猪はギリシャ神話では常に勇猛で恐れられていた)、青銅の手と、黄金の翼を持って飛行する。また顔は恐ろしく醜悪で、その顔を見たものは一瞬にして石と化してしまうという。それは想像をはるかに越えた醜さのために、見た瞬間、恐怖心で体が堅くなってしまう、ということではないかと思う。

メデゥサの首、地震で梁から落ちた時に二つに割れたらしい。

このゴルゴンの首をとったものは、ギリシャ神話ではペルセウス(ゼウスが浮気をして出来た子ども)である。彼はある祝宴に土産を持たずに行って、照れ隠しについうっかりと、「ゴルゴンの首でも持ってきましょうか」と、とんでもない口をすべらせてしまった。ペルセウスに妬み心を持った王の一人が、目ざとくこれを煽り立てた。

ペルセウスはゴルゴンの首をとってこなければならなくなった。英雄神ヘルメスは空を飛べる靴と、姿を隠す帽子と鋭利な鎌を貸してくれた。またアテナイも肩入れして鏡のように良く磨いた盾を貸して道案内をしてくれた。ペルセウスはその首を入れる袋を手に入れ、三老女(ゴルゴンの親戚で、三人で一つしかない入れ歯と目を互いに使い回していた)から巧みにゴルゴンの居場所を聞き出した。ゴルゴンに遭たとき、彼女たちは都合よく居眠りをしていた。姿を隠し、顔を見ないようにしてペルセウスは、盾に写し出されたゴルゴン三姉妹の一人の首を切り落とし、袋に入れた。これがメデゥサの首であった。

目を覚まし、恐ろしい声をあげて追ってくる他の姉妹を、空とぷ靴と姿を隠す帽子とで巧みに逃げ切り、アテナイに首を献じた。アテナイはその首を盾の真中につけて飾りとした。

メデゥサはどんなに恐ろしいものかと思っていたら、トルコ西海岸のディディマという所にあるアポロンの信託殿(古代においては神の言業を聞き出すことが出莱る神聖な場所、広い頑丈な敷石と高くて太い柱が残っている)の遺跡の入り口においてあるメデゥサの首(大昔の地震の時、梁から落ちてきたもので2メートル四方はある)の石像はそれほど恐ろしい感じはしなかった。むしろ男のような顔をし、苦しみに耐え切れぬ悲しい表情をしていた。

メデゥサの首の彫刻は、トルコのイスタンプールのいわゆる地下宮殿とされるイエレバタン貯水池の柱の基礎にも使われている。これはローマ時代に作られたものをリサイクルして使っているのたが、水に濡れて青苔のついたその顔は見るも無残な感じがして哀れであった。

バレルモ(シチリア島北東部)博物館に行くとメデウサの首が切られるところのレリーフが置いてあるそうだが、写真で見るとペルセウスはメデゥサの後ろに回ってその首を掻き切っている、然しそれらの顔はどうしようもないほど稚拙な描き方でみるに耐えないものである。

見ると石になってしまうような恐ろしい顔というものはどんなものか、われわれには想像もつかない。画家や彫刻家たちも、そんな顔は創作できないのではないだろうか。また石になってしまうというメデゥサの呪いが今もかけられているのではないかと思い、恐る恐る製作したということはなかったろうか。

イエレバタンの貯水池に沈むメデゥサの首

恐ろしい顔は、われわれ日本人は幽霊の顔ですでに経験済みである。然し幽霊は死人の顔であるから、ゴルゴンとは比較できまい。

幽霊は殺した相手恨みを晴らそうとして現れるが、日本の妖径は決まったところに出没して通行人を怖がらせる。ゴルゴンのメデゥサは、ギリシャ神話では恐ろ しい妖怪であるけれども、別段なんの罪も犯していないようである。それなのに首を切られて殺されたのは気の毒なことであった。

ギリシャ神話でもクレタ島のクノッソス迷宮(その遺跡は発掘され、実際に神話どおりの建物が存在したことが証明された)に住む牛頭人身のミノタウロスは、毎年少年少女の生け贄を与えられた。(日本の牛は鈍重な感じだが、ヨーロッパの牛は体も大きく、角も太くて長い。アテネの美術館には牛の首の彫刻が展示してあって、恐ろしい顔をしている。ヨーロッパのある地方には実際に角を研いで、怒らせ、追いかけさせる祭りの行事があり、毎年死傷者が出るそうだが,祭りにかける熱情は世界共通である)

クレタ島のミノス王は、戦いに勝ったアテネから男女七人づつの人質を取ってミノタウロスに与えた。アテネのテセウス王子はみずから生け贄の中に加わり、ミノスの王女アリアドネの助けを借りて迷宮の中に入り、牛人ミノタウロスを退治した。

ミノタウロスと違って、ゴルゴンは誰も行かない世界の果てに住み、人を殺したりしてはいない。いかに恐ろしい妖怪だからといって、ギリシャ神話とはいえ、罪もないものを殺すのは間違っているのではないか。これは私が日本人だからそう思うのか。すこしメデゥサを気の毒に思う。然しその思いは彫刻家たちにもあって、メデゥサの首の彫刻を息苦しいものにしているのではないかと思う。それは人におそれられる妖怪の悲しい運命の嘆きであり、彫刻家たちはそれを表そうとしたのではないだろうか。

青かびの入ったチーズというのは、イエレバタンの柱の基礎に身を持ち崩し、水に浸かって青苔の生えたメデゥサの首のように、気味悪く、これを始めて試食した人は、相当勇気のある人だったのではなかろうか。おそるおそる味わった後なんの病気にもならず、かえって風味があって旨かったことで安心し、好んで食するようになったのだろうか。しかし青かびの入ったチーズは見た目には決して気持ちの良いものではないから、ゴルゴンの名が与えられたのであろう。あるいはイエレバタンの柱の類似から直接命名されたのではないだろうか。そうだとすれば、これはメデゥサの復権である。ゾーラというのは、たぶん「顔」とか「面」の意味であるに違いない。うまい命名法である。

その後、比較的安価なフランスの青かびのチーズが出まわった。味はゴルゴンゾーラとあまり代わらないように思う。今のところはもっぱら塩味の間いたそんなチーズを味わっている。

2001/2/5