伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回は「死を見つめる」です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け・・・2014年4月10日没

死を見つめる

死を見つめる

最近何人かの年寄りに、「死について」の問題を持ち出すと、たいていの人は驚いて、何も考えていない、という人が殆どで、かえってこちらが驚いてしまうことが多い。私は読書を始めるようになった16、7歳の時からこのことを思い続けてきた。初めてこの問題にぶつかったのは、トルストイが書いた文を読んだ時である。それは、旅人が砂漠を旅行していて、喉がカラカラに乾いた時、虎に追いかけられ、必死に逃げて、ふじづるの生い茂った空井戸に飛び込み、やれ一安心と思ったが、下を見ると、そこには恐ろしい竜が大きな口を開けて一呑みにしようと待ち構えている。旅人はふじづるにぶらさがったまま、上下の恐怖にさらされておびえ続けながら、ふと周囲を見回すと、藤の葉に露がたまっている。旅人はその露をなめて喉の渇きを癒しながら、一時の安心を得た思いにひたる、という内容であった。

トルストイのこの一文はもちろん、だれでも常に死という恐怖にさらされながら、一時それを忘れてその場だけの安心に浸る、という状態を比喩したものであるが、私はその文にかくされた内容におののきながら、若い時期を過ごしていた。その頃、太平洋戦争が激しくなり、何時死が訪れるか分からないという情勢にあって、死の覚悟をきめなければならない状況に迫られていた。戦争が終りひとまず死ななくてすんだ、とは思ったけれど、私はやはり「避けられない死」に対する思いにさらされ、この問題を避けて安心立命は得られないのだ、と思うようになった。

私は今、八十余歳の長寿を保って、よく生き長らえた、幸福な人生であったという思いを自覚しながらも、その中にとっぷりと使って、我を忘れていることが出来ない。今は一時生きながらえても、避けては通れない道=「死」がそのうちやってくる、その時慌てないように覚悟することが大切である、と常に思っている。

葉隠(はがくれ)武士道(佐賀の鍋島光茂に仕えた山本定朝の語った言葉)では次のように言っている。

「武士道と云は、死ぬ事と見つけたり」

これは泰平の徳川期に入って、戦陣を駆け巡って君公の馬前で討ち死にすることは出来なくなったとしても、武士は常に必要とあらば潔く死ぬことを忘れてはならない、という武士の本来の気構えを表したのであろう。(参考:葉隠

私たちは武士ではないが、同じ日本の精神文化の伝統の中に生きている。武士が自分を戒めたように、私たちは「いつか死ぬことを忘れずに生きる」ことが大切で、それが人生であるという自覚を持たなければならないと思う。

在原業平の歌に、

桜花 散り交ひ曇れ 老いらくの 来むといふなる 途まがふがに (古今和歌集)

というのがある。

太政大臣基経の四十の賀に招かれて詠んだ歌で、老いらく、というのは「老い」を一つの霊のようなものと見て、擬人化したものである。その「老い」がやってくる道を散る桜の花で分からなくしてしまってくれ、という美しい歌である。老齢…醜く老いさらばえるということも人にとって避けることはできない。老齢の最後に死霊に会うことになるのだが、桜の花につつまれて死期を迎えられれば、こんな美しく、幸福なことはない。

西行法師はそのような次の歌を詠んだ。

願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃 (続古今和歌集)

西行はその願い通り、翌年の二月十六日に死ぬことができた。

日本人は死を美化する願いがある。しかしいかに美化しようと、死に変わりはない。多くの人は、何とかひどい病気にもならずにいれば、最初に記したように死について深刻な考えも持たずに死を迎える。伊勢物語の最終段に載り、古今集にも載っている歌で、業平はそのことを次のように詠んでいる。

つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

辞世の歌ではないが、これは治りそうもない病の床に伏して、身体が衰弱し、死を予感した時の心境であろう。万人共通の死を眼前に迎えて、寂しい孤独の境地を詠んだものとして人の心を打つ名歌になっている。そこには深刻な哲学も死生観もない素直な驚きだけが表れている。それが日本人共通の普通の姿なのであろう。

インドのヒンズー教徒は、ガンジスの聖なる川に沐浴し、その流れの中に散骨をしてもらいたいと願う。その、墓も作らず、自然と一体化したいという信仰は美しいと思うが、汚染につながる近代化の問題を避けて通ることはできない。その上、輪廻転生(自分の魂はいつか他の身体に生れ変わる)を信じているとすれば、それは安易な慰めにしかならない。我々人間にとって、死は避けられぬ運命である。釈迦は欲望を抑制する教えを説いたが、死に対してもまた、人は欲望を持っている。死にたくない、という欲と、死んでも魂は残ってもらいたいという期待がある。

しかし人は生物の一つであり、生物の在り方として死は避けられず、霊魂が残ると思うのも空しい願いである。いかにこれまで生きた思いが貴かろうと、「生あるものは必ず滅す」と思わなければならない。死はすべてを無に帰する。人は死によって空しく消えていく。いかに無念であろうと、それが生物としての人間の真実の姿であれば、やむを得ない。これは「寂滅」と呼んでいいだろう。桜の花が散るように、人は死んで無に帰るのである。

私はせめてもの慰めに自分の墓を作り、「寂滅」の文字と自分の名や生きた年月を刻んでおいた。しかしいつかはそれも消えてなくなってゆくことであろう。

2005/9/15