伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回は「坂の上の雲」です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け・・・2014年4月10日没

坂の上の雲

坂の上の雲

先日、デパートの眼鏡売り場に寄った時、そこの年配の方が私の眼鏡枠を改めてくれ、いろいろと話し込んできて、最近、「司馬遼太郎の"坂の上の雲"を愛読しています」と言ったので、私も思わず同感して話しこんでしまった。

「坂の上の雲」という題の意味は、私はずっと長い間理解しないでいたのであるが、最近何か分るようになった。維新の時代に生まれあわせた明治の志ある若者たちは、皆「坂の上の雲」を仰ぎ見ていたのである。その坂を自分たちは苦労して登っていかなければならない、坂の上には大きな白い雲が横たわって居り、その雲に若者たちはそれぞれ大きな望みを託しいてたのである。そこには若者たちの溢れるばかりの意欲がこもっていた。

幕末の世は何とかせねばならぬ慌ただしい状況に追い込まれていた。このままでは中国のように世界の列国から酷い侵略にさらされてしまう、そうした圧力から逃れるためにはどうしても開国が必要である、と先覚者たちは教えていた。そのために国は一つにまとまらなければならないのだが、徳川幕府は右往左往するばかりで、それを一つにまとめるだけの力も人もいない。伊井大老の暗殺がその結果を如実に教えていた。そこには混乱した様相そのものだけが露呈されている。幕府は答えを出すことができないのだが、何とかしなければ国は滅びてしまう。…明治維新はそのようにして起った。

司馬遼太郎はまた、「明治維新は武士たちによる革命である」とも言ったそうである。なるほど明治維新は農民や町民をまきこんでの革命にはならなかった。一部の商人を除いて、農民や職人たちは、長らく幕府権力による貧困のために革新を待ち望んではいたが、「いいじゃないか」の踊りに狂うだけで、主役にはなれなかった。維新の主役は何といっても下級の武士たちで、彼等は革命戦争の先頭に立って偉業を成し遂げ、しかも昔から受け継いできた「録」という僅かな身分の立場を捨ててまで、新しい世の中を獲得しようとし、行き過ぎてから慌てて、古い昔からの家録にしがみついて、新しく生きては行けないままの武士たちが多かった。しかしすでにもう遅く、武士たちの氾濫は新政権に押しつぶされてしまった。しかも彼らの先覚者たちが新政権の原動力となった萩や薩摩でも惨めに敗退してしまった。古い武士たちの武士道精神では律し切れぬ新しい武士の政治家が、世界に通用する新知識を持って、新しい国家の官僚として現れることが必要であった。西郷隆盛を頭にいただいた薩摩軍人たちは、政治の中にあふれるばかりの希望や意見を入れこみ過ぎて、自ら滅んでしまった。

しかし、折角「国」は一つにまとまりかけても、国民はまだ遅れたままである。

日露戦争は小さい国力、小さい武力のままで、ようやく「勝つ」という形を整える事ができた。それまで「猿」とまで言われて、ロシア皇帝やロシア貴族たちから馬鹿にされてきた日本国民は、ようやく勝ったという真の意味を理解する事ができない。「いいじゃないか」踊りの意識のまま、過剰すぎる自信に我を忘れて浮かれ、自粛できない状態にある。そして太平洋戦争の悲しい結果にまで落ちこんでいった。

司馬遼太郎は日本人に多くの優れた史観を発見してくれた。明治維新の真の意味(市民革命ではなく、武士たちよる革命である)などはそのすぐれた史観一つである。残念なことに戦後になってからそのことが教えられた。録を与えてくれた殿様に忠義の誠を尽くすという武士道はもう必要でなくなったが、それは強い政府の官僚による国家を築き上げるという願望として残り、これが明治政権の新しい理念となった。代わりに天皇制による統一国家という理念が生れ合わせた民権を圧迫し、自由な思想の教育発展を弾圧した。私たちはどれだけこうした狭い思想の教育被害に苦しめられたかしれない。

今、「仕分け」活動はまだその途中にある。教育や宗教法人などはまだ一つも手が付けられていない。天下り等の国家予算の無駄遣いもなくならず、アメリカ軍の基地使用は国の独立をいまだに阻んでいる。日本国民が独立自尊の思想を取り戻し、維新時代の新しい「坂の上の雲」を望みみることはできるかどうか、私たちはいまスタート地点に立っているのではないだろうか。

司馬遼太郎が教えてくれた史観の成果を私たちは正しく把握しなければばならない。

忠臣蔵の謎

いつも年の瀬を迎えると、思い出したように赤穂浪士討ち入りのことが伝えられる。今回も討ち入りの謎の一つ…討ち入りを果した後、泉岳寺に引き上げる途中で寺坂吉右衛門が失踪した、その墓があちこちにあるはなぜか?…という問題が持ち出された。しかし明確な答は出さず、謎はそのままである。

その答の一つは以前から出ている。吉良に非はない。むしろ名君であったと伝えられている。赤穂の若殿様の方が狂っていて訳のわからない行動に走ってしまった。しかし喧嘩は両成敗なのに、一方的に赤穂藩だけが取りつぶされた。その処置が正しかったのかどうか、義士たちは幕府の御政道の正しい意義を問うべく行動を起した。柳沢吉保らはこれを政治的に利用し、浪士の行動をを義挙として取り上げ、江戸の町人文化が助長した。寺坂は武士ではないから、大石は義士としての生き方から解放し、自由な生き方をさせようとした。今では理解できない封建時代の身分制度に問題が残る。これは一つの解釈としてどうだろうか。

2010/12/15