伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回は「怨念の恐ろしさ」です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け・・・2014年4月10日没

怨念の恐ろしさ

怨念の恐ろしさ

2006年3月7日国立劇場で「当世流 小栗判官」を見て

私は前に「オグリ」という名で市川猿之助が演じた(昭和58年(1983))歌舞伎を見ている。それは「ヤマトタケル」に始まる、スーパー歌舞伎といわれた流れに沿ったもので、梅原猛氏が「ヤマトタケル」の脚本を書いたことなどもあり、興味があったからである。「オグリ」を見た後、熊野古道を歩き、「湯の峰」温泉の壺湯にも入って、小栗判官の伝説に親しんだものであった。その後、猿之助の病気などもあって、スーパー歌舞伎の勢いは下火になってしまったが、今回は当世流と名を変えて、一門の若手ばかりが出演しているので、どうなったのかと思い、少し興味があった。

その中で一つ、目立って感じたことがある。夜の部三幕目の「青葉宿」で、宿の長者の娘お駒は、乱暴者から助けてもらった嬉しさに、小栗に一目ぼれし、祝言を挙げようとする日になって、小栗と前からの許婚者で、流浪していた照手姫と再会する。照手姫はお駒の母お槙の旧主の娘であるため、お槙は必死になってお駒を止めるが、いうことをきかない。遂にお槙はお駒を斬って忠節を尽くす。これは昔ながらの義理人情で、他の歌舞伎の伝統とあまり変わらない感じだ。

ところが恐ろしいことに、お駒の生首は庭の石灯籠の上に飛び乗って、凄まじい女の怨念が繰り広げられる。するとその瞬間、小栗の顔半面が崩れ落ち、脚が萎えて歩けなくなってしまうのである。

前の「オグリ」の場合は、悪者に毒薬を飲まされたために小栗が苦しむのであったが、今回は女の恋の恨みつらみが高じての結果になっている。結局小栗は照手姫の献身的な介護を受け、すばらしい温泉の霊能と一遍上人のありがたい祈りの功徳によって回復する。これも昔ながらの信仰によるもので、現代的な考え方にはなんら関係のない結果になっている。

しかし私はこれを見て、女の恋の凄まじさにまったく圧倒されてしまった。似たような例でみると、古くは和歌山県の道成寺縁起の伝説では、鐘の中に隠れた安珍を、蛇身となった清姫が恐ろしい恋の炎で焼き殺してしまう。江戸時代では八百屋お七が恋人に会いたい一心で大火事を引き起した。これは小児の愚かな幼さによるものであろう。同じような例は現代でも多い。愛人への恨みから放火したニュースや、子への過剰な思いで関係ない他人の子供を殺してしまった母親の例などがある。これらのことを考えると、お駒の恐ろしさはけっして昔だけのものではない。それは現代の世に未だに続いているのである。

恋の執念は女の方だが、凝り固まった宗教集団の力は男の方に強い。奈良時代以後武装した南都や比叡山の僧兵は、侮れぬ勢力となって戦国の世の混乱に加わった。信長の憎しみは敵をかくまった比叡山を焼き討ちし、水軍を擁した石山本願寺の平定にはたいへんな苦労を払った。江戸時代には徳川幕府が寺の経済を安定させて争いはなくなったが、僧はかえって堕落した。現代に入っても、仏教であることを止めて葬式産業に変貌し、かえって平然としている。墓のない寺でも拝観料を独占し、莫大な収入を抱えながら税金を免れる厚顔にはあきれ果てて物が言えない。これらすべて僧が物欲を抱えた人間だからである。

物欲の堕落を避けようと心がけた良寛は寺を持つことができず、乞食坊主に徹しなければならなかった。良寛は私のもっとも尊敬する故人の一人である。

貴重な文化遺跡が戦乱や思想、信条のために破壊される例が国外にも多い。シルクロードの大仏遺跡破壊など、今となってはまったく取り返しがつかない。中国の文化革命など、一時的に騒いでもかえって過去の文化を破壊してしまった愚かな歴史がある。ユダヤとイスラムの宗教の争いは殺しあいに発展し、いつまでたっても国情は安定しない。イラクでは同じ宗派の中で争っている。私たちには馬鹿なことをしていると思えても、当事者になれば他人には理解できなくてもいいという、強烈な思いがあるのだろうか。

平和は万人の願いである。お互いに相手の心を認め、許し会うような世の中になれないものなのだろうか。

2006/3/9