伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回は「舞姫を読んで」です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け・・・2014年4月10日没

「舞姫」を読んで

「舞姫」を読んで

古典読書会では森鴎外の「舞姫」を読み終った。今は文語文で書かれた古典となった小説ではあるが、現代日本人の鑑賞に十分耐え得る名文である。だが最後の「ああ、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されどわが脳裡には一点の彼を憎むこころ今日までも残れけり」という文については、会員が皆一様に疑問を持った。

相沢は主人公である官学の留学生太田豊太郎がベルリンで恋仲となった舞姫のエリスと別れさせ、太田を再び日本に連れ戻して復帰させるために尽力した親友である。その相沢に対して太田は感謝こそすれ、恨むことは何ひとつないはず、責任は太田自身にあるべきなのに、恨みを持つとはどういうことなのか、という疑問が集中したのである。

今でこそ日本人が外国人と結婚することは何ら問題はないだろう。しかし明治21年の新生日本の、それも若い陸軍官僚が外国婦人を伴って帰るとあらば、どれだけ凄まじい非難攻撃をまき起すことになるか、想像に難くない。ことに鴎外は母を初め、一家の名誉と声望を一身に担い、立身出世を望んだ親族の期待に答えねばならない立場にたっている。作品「舞姫」ではエリスは発狂したことになっているが、実際は帰国した鴎外を追って、ドイツ人女性が横浜に上陸している。鴎外としては一個人の恋愛は自由であるという近代的思想は維持していても、当時の固陋な明治社会にとっては考えも及ばぬ由々しき問題であった。家族が総掛かりとなって、秘密のうちに女性に手切れ金を与えて帰国させている。

女性の名は、多くの研究者がつきとめようと努力したにも拘らず分らずじまいであった。作品「舞姫」でもエリスという名で登場した女性の実名ははっきりしない。鴎外自身も後になって一切の資料を燃やしてしまったそうであるから、詳しい真相はついに闇の中に葬られたということになる。

鴎外は帰朝後爵位をもつ上役の娘と結婚して後、まもなく離婚している。その結婚した婦人はことある度に実家の名を持ち出して鴎外を傷つけたのではないだろうか。鴎外は生まれた子にすべてドイツ名をつけ、かつての地の思い出としている。

死に際しても、墓碑に戒名ではなく「森林太郎墓」とだけ記させた上、一切の名誉を断っている。周囲の人にも一個の独立した近代的人間としての自身を扱ってもらいたいと望んでいた。しかし明治の遅れた封建的思想はそれを許さず、小説「舞姫」ではついに妥協せざるを得なかった。親友相沢はその対局の立場に立っていた。その残念な記念の思いが、作品「舞姫」となって結晶したのではないだろうか。私としては死期に一個の独立した近代人としての自己をうちたてた森鴎外を、深く賛美したく思うのである。

2009/12/10