伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回は「映画鑑賞 一命 感想」です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け・・・2014年4月10日没

映画鑑賞 一命 感想

映画鑑賞 一命 感想

三池崇史監督の時代劇で、カンヌ映画祭に出品する予定であるという。前に見た時代劇「小川の辺(ほとり)」は藤沢周平の原作であると聞いていたので期待していたのだが、筋が平凡で大きな変化に乏しく、原作に忠実すぎるように思えた。今度はどうであろうかと思っていたら、たいへん見事な出来ばえで優れた作品に思えた。50年ほど前に、「切腹」という名で同じ原作(滝口康彦)が上映され(小林正樹監督)、その評判はよかったそうである。今回「命」の大切さはどう考えられているのだろうか。

江戸時代の初め、お取り潰しとなって溢れた福島家の浪人、市川海老蔵扮する津雲半四郎が江戸の井伊家上屋敷に現れ、切腹したいから玄関先を借りたいと願い出る。半四郎は何か月か前に同じことを願い出た娘婿の千々岩求女(瑛太)の義父である。井伊家家老の斎藤勧解由(役所広司)は津雲に求女のことを話してきかせる。求女は激しい貧困のため、病に苦しんだ妻子を救おうとして、井伊家に金目当ての狂言切腹を申し出たのである。しかし金銭は与えられず、腰に差していた竹光で願い通りの凄惨な切腹をさせられる。半四郎はその後病で命を失った娘とその赤子の恨みを晴らそうと井伊家にやってきて、求女に「存分に(腹を)引き回されよ」と言って冷たく扱った首切り役人や、見参役にあやまらせようとする。半四郎は「切り捨てよ」と家老が命じた多くの家来を相手にして、やはり竹光で戦う。竹光を切り落とされた半四郎は倒れるが、この獅子奮迅の戦いは写実的とはいえない。しかしこれは映画の見せ場を作るためであろうからやむを得ない。

武士の体面とは何なのかが問題にされている。浪人の願いをそのまま聞き届けるのはまだしも、同じ関ヶ原の戦いで共に戦った豊臣恩顧の大名に対して、徳川家の惨い(むごい)政策を施してお取り潰しとなり、過酷な貧困に陥った浪人たちに、暖かい眼をむけてやることはできなかったのか、作者は厳しい武士道の取扱いに疑問の目を投げかけている。主君家康の惨いやり方に従うだけの武士道は、何も問題にならなかったのかが、厳しく問われているのではないだろうか。

井伊家といえば、徳川四天王の家柄で、赤備えの誉れ高い評価を受けている。しかし幕末時、大老井伊直弼は情けなくも水戸浪士に暗殺されて徳川幕府の面目を丸潰しにしてしまった。全国の解明家を捕えて切腹させた井伊直弼のやり方は独裁的すぎて強引であったが、開港策はけっして間違いではなかったはずだ。またこの家は鳥羽伏見の戦いで真っ先に徳川家を裏切って離反し、倒幕側についた。これには私も納得できない。かつて国宝彦根城を見学した際にも、私は素直な気持で見ることができなかった。関ケ原の戦いでは福島家とは共に徳川家の東軍に属していた。それが城の修理を言いがかりに強引に福島家を断絶させ、家来たちに無残な目を遭わせた。豊臣を滅ぼす時にも道理を欠いた家康の汚いやり方が、真剣味のない滑稽な狂言切腹の悲劇を生んだといってよい。にもかかわらず、武士道は武士の面目を保つために精神的に整えられ、儒教がその中心となって日本人の心を育てていったというが、すべての現実はその通りとなっただろうか?大阪夏の陣は史上最も悲惨な戦場であり、もう二度とそんな運命を味わうことはしまいと、多くの日本人は心に銘じたはずだ。

厳しい封建時代の道徳に対して、明治維新は新しい国家統一を目指して、新しい時代の精神によった。しかし新しい世界の民主主義に向かう精神は、このたびの敗戦後までようやく待つことになり、今日の日本人の心を成長させることができた。刀を持って主君のために命を捨てるという武士道は、これから「天皇陛下のために命を捧げる」という立場を捨てて、命を大切にする日本人の心となって行かねばならない。「一命」はそのことを日本人たちに問いかけているのではないだろうか。

「一命」の後、同時上映されていた「猿の惑星…創世記」を観た。これはアメリカ映画である。高い遺伝子を持つようになったチンパンジーが、他の類人猿と共に人類の束縛を逃れて独立していくという内容である。昔評判となったシリーズの「猿の惑星」が、どんな端緒から出発していったか示している。しかしこの「猿の惑星」は、人類の将来の問題を警告してはいるものの、余りにも荒唐無稽で、根拠のない想像の世界に陥っている。生物の進化は長い期間の歴史を伴うはずである。チンパンジーも進化するだろうが、短期間に進行することは有り得ない。さらに他のオランウータンやゴリラなど類人猿をも伴って、人類の知能を超えてゆく事などできない。人類が滅びる時は他の類人猿も共に滅びる。それが生物の運命である。

科学的根拠を持たぬ映画の発展などは、これからの映画の世界に期待することはできない。それはちょっとした話題となり、一時観客の眼を向けるかもしれないが、根拠のない話題として消えていくだろう。

「猿の惑星」がアメリカ映画を代表するわけではないから、「一命」と対比するのは乱暴であるが、この二つには越え難い文化の違いがあるように思う。日本とアメリカ文化との違いというわけではないが、綿密な検討を経て進んで行こうとする日本人の考え方と、大雑把で意外な人の面を驚かして大きな変化を示そうとするアメリカ人の気質には、大きな違いがあるように思う。それは大地震と大津波への対応にも表れているのではないだろうか。日本は大きな災害の痛手は受けたが、アメリカなどでは暴動が起きたそうである。そして日本人の災害に対するこのような落ち着いた態度は、他国では考えられないという。

2011/10/25