イタリア旅行記。伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

イタリア旅行記

1993年4月16日〜 10日間

ヨーロッパの海外旅行はイタリアが始めてで、多くの新鮮な感動を味わうことができた。五月から七月の南イタリアは暑いのでシェスタ(昼寝)を必要とするそうである。労働者は家から戻らず、工場は動かない。三時間昼寝して五時間働く。四月は温暖で旅行期として最良であるとのこと。

トイレ…有料(五〇〜五百リラ)コインをいつも持つこと。慣れない日本から来た我々はまずこのことに戸惑う。憤慨してもはじまらないからあきらめる。日本はいい国だ。

ミラノ

(ドゥオモ)大聖堂

1836年ミラノ公ヴィスコンティの命で着工、500年かかって、この135本の尖塔を持つ巨大なゴシックの大伽藍(だいがらん)が作られたという、まずその偉容に圧倒された。内部は意外に暗く、次第に沢山の細長い窓のステンドグラスを通して入ってくる光の神秘的な美しさに心を奪われ、驚きの連続である。明らかなカルチャーショックを覚え、日本とは全く質的に異なる文化の姿、深さ、重さに脱帽し、ただただ沈黙するのみ。

教会にステンドグラスやフレスコ画が多い理由…古代から中世を通じて、民衆は文盲が多く、ラテン語で書かれた聖書は読めなかったという。ステンドグラスは美しい教科書なのである。私のような門外漢と同じ驚きを、当時の農民は感じたことだろう。

スカラ座

1778年竣工。初めの照明は石油ランプ二本で、暗く、立ちこめる油煙のために天井に穴をあけたら、冬は寒さが酷く、歌手も客も行儀が悪くて、騒々しかったそうだ。後になって、このミラノ座がローマ時代末期の聖人アンブロシウスを記念して捧げられたものと知り、驚いた。アンブロシウスは4世紀のローマ皇帝テオドシウスを圧倒する力を持っていたキリスト教ミラノの司教である。

今はオペラのメッカ。世界中の歌手が技を競い合う。オペラやバレェは日本人には縁遠く、高価で、冬に多い上演のために、なかなか見られないのが残念だ。

記念墓地

大理石で作った華麗で大きな墓は、まさに死を記念する明るい文化の標榜である。これと対照的なのは、重厚で暗い文化の沈黙を感じる、日本の高野山奥の院ではないかと思われる。

最後の晩餐(サンタ・マリア・デラ・グラツィエ教会)

修理して絵の具を剥したら、ダ・ヴィンチの最初の絵が現われた。果たして本当の絵の姿はどうだったのか?

ヴェローナ

キャブレット家のバルコニー

(11世紀後半〜12世紀末)法王派と皇帝派に分れた都市国家ヴェローナの政治紛争を、シェークスピアはロミオとジュリエッタの悲劇にまとめあげた。世界の各地から集まってくる観光客は、面白いガイドの説明に笑い楽しむ。ロミオのモンタギュー家は実在したが、ジュリエッタのキャブレット家はシェークスピアの創作である。

バルコニーに入る手前の壁は極彩色いっぱいの落書き。しかしそれは見た目に綺麗で醜くないから、そのまま残しておいてもいいと思った。日本なら汚らしいものでもイタリアでは美術的価値があると、変な感心をする。

ダンテの像

ダンテはフィレンツェの下級貴族の家に生れ、ボローニャ大学で修辞学を修めた。市政の要路にたったが失脚し、生涯北イタリアの各地をさまよう身となった。「神曲」はその放浪生活のうちに20数年をかけて書き、ルネッサンスの先駆者となった。

ヴェネツィア

ローマ広場から先の交通はすべて船である。まずモーター船でカナーレ(運河)を通ってホテルへ着く。

資源の乏しいイタリアの中でも、特にラグーナ(潟)を埋めたてただけの、徹底して物と人の資源を持たぬべネツィアが、一千年にわたってどう生きたかは、日本人の将来にとっても大きな興味をひくところである。

塩野七生の「海の都の物語」によれば、完全な共和制によって内紛を防ぎ、地中海各地との交易によって大きな利を得た。第四次十字軍(1205)では元首(ドージェ)自ら海軍を率い、ピザンチン帝国を攻めている。同じキリスト教国でありながら、経済上の利益を優先させたのである。

ゴンドラ

運河が縦横に通る街の大理石製の橋を渡る。ホテルのすぐ横を運河が通り、その船着場から三艘に分れてゴンドラに乗る。

快い川風の中をゆったりと揺られる最高の気分。黒塗りの細長いゴンドラを、男前の漕ぎ手が長いオールを巧みに操る。水は思ったほど汚れてもいず、匂いもない。地球温暖化の現象で水位が上り、200年後には完全に沈んでしまうそうだ。今も冬の増水期に広場は水浸しになる。

カンツォーネ

二艘目にアコーディオン伴奏つきのソプラノ歌手を乗せる。歌手といっても、鳥打帽の街のおっさんである。歌は日本人に馴染みの深い「オーソレミオ」「フニクリ、フニクラ」「帰れソレントへ」「サンタ・ルチア」等。日本人が日本語で歌うものとはまるきり感じが違う。

リアルト橋

大運河(カナーレ・グランデ)に入り、リアルト橋の下を通った。

ここはヴェネツィアの中心地、通商貿易、金融機関の中心となっている。橋の上にも店が並ぶ。それは人の交通の多さと国土の狭さを表すものだろう。

カーニバル

主題節〜謝肉祭〜四旬節〜復活祭と続くキリスト教の行事の中で、有名なのは仮面をかぶるベネツィアの謝肉祭である。元は冬至の太陽への祈りの祭であったが、九世紀頃からキリスト教に取り入れられた。仮面や仮装は恥を忘れて乱痴気騒ぎを起しやすくする。生活を厳しく律する四旬節の前一週間を、この祭の期間に当てることで巧みに調整できるのだという。

ガイドに脱帽

ガイドのアントニオはヨーロッパの五国語が話せ、流暢な日本語で冗談を言う。彼は日本には来たことがなく、NHKの番組で覚えたという。若者には昔から厳しい教育が施されたそうだ。中世期の公文書記録は公用語のラテン語でなされた。貿易立国のこの国が関係を持ったのは、ギリシャ、アラビア、トルコ、フランス、ドイツ、スペイン等で、それらの国の言語が話せなければ商業は成立しない。ガイドの質の高さは、こうした伝統的な観光業によるものである。

サン・マルコ寺院の内部

サン・マルコの遺骨はアレキサンドリアのキリスト教寺院から運び、何もなかったヴェネツィアにとっては大変貴重なものとなった。またヴェネツィア海軍はフランスの諸侯と共に第四次十字軍でコンスタンチノーブルを攻略し、多くの聖遺物(キリストの架けられた十字架片や聖者の遺骨)その他を略奪して来た。この寺院の正面を飾るブロンズの四頭の馬(工事中)もその一つである。コンスタンチノーブルが後トルコによって滅亡し、すべて破壊されたことからすれば、貴重な戦利品であったことになる。

ヴェネツィア・ガラス店

ムラノ島のガラス工房の出店。日本語の達者な店員にまず驚く。日本の観光客は巧みな商売と円高、慣れない通貨の換算などに迷って、高価なガラス製品を買わされる羽目となる。

パドヴァとラヴェンナ

バドヴァのスクロベリー礼拝堂は戦災に逢い修復中である。

内部にジォットーの綺麗なフレスコ壁画。フレスコ画は煉瓦の上に漆喰を塗り、乾かぬうちに顔料を塗る。(漆喰が乾いてから描くのはテンペラ画)ジォットーは職人たちを並ばせ、す早く指図して描かせたらしい。

マリアの誕生から始まるキリストの一生を描く(1300年頃の作)礼拝堂の庭は美しい草が茂り、小さい花が咲いている。これは日本とは異なる地中海性気候のためであろうか。沢山の可愛い顔の小中学生が学習に来ていて、うるさいのだが、それは日本には見られぬ宗教教育のためなのである。

モザイク画…壁に漆喰を塗り、乾かぬうちに色大理石や金を嵌め込んでいく。この絵は壁が壊れない限り残る。

フィレンツェ

ミケランジェロ広場より桃の花と糸杉の風景

ドゥオモ(花の聖母寺サンタマリア・デ・フィオレ(1296年〜600年かかって完成) その華麗さはいいようもない。ただただその場に立ち尽くすのみ。これだけのものを、財力もさることながら、長い歳月をかけて造り上げる気力はすばらしい。日本は経済大国ともてはやされながら、それは自称なのであった。これに匹敵する建造物がわれわれにあるか?いいようもない文化の隔絶した違いが、重たくのしかかる。

「花の都」といわれたその名を挙げたのは、この都市に集った手工業者によって作られた毛織物製品であり、さらに諸国王や封建貴族、法王庁等に大規模な貸付けをおこなっていた金融業である。特にコシモ、ロレンツォ二代を経て富裕な商人貴族となったメディチ家は、民心を捕えたやり方でフィレンツェ黄金時代の繁栄を築いた。

この大理石教会の裏側は水をかけて清掃中、大理石はただ同然にこの地方に多く求められるという。そうでなければこの偉大な大理石建築文化は成立しなかったろう。 ミケランジェロのダビデ像(コピー)はその代表作 29歳

サボナローラの処刑

シニョーリァ広場の中央には1メートル程の丸石がはめ込まれ、次の様に字が刻まれている。「この場で修道士ドメニコ、シルベストロと共に1498年5月23日不正な判決によって修道士ジローラモ・サボナローラは、絞首刑の後火刑に処せられた。」4世紀後追憶をこめてこの記念碑を設置する。

神の代理人であるべきローマ法王アレッサンドラ六世(ボルジア家出身)の腐敗堕落を攻撃したサボナローラは、法王の巧妙な政治力によって、かつては彼を全面的に支持したフィレンツェの民衆から攻撃を受け処刑された。「感性によって動く」大衆の典型的な例である。

ウフィツィ美術館

ヴェッキオ宮殿の隣にあるこの美術館は、帰国後1ケ月して過激派によると思われる爆弾の被害にあった。キリスト教民主党の賄賂事件が起り、イタリア政界の堕落の反映なのであろうが、もしもこの旅行が5月中であったら入場はできず、あの有名なボッテチェリの「春」「ヴィーナスの誕生」、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ等の作品は遂に見られなかったろう。

ピサ

斜塔は有名だが、それだけでもっているのではない

ピサの斜塔を見に世界中の人がやってくる。建てた時から傾いていて、危険だから登るのが禁止されているが、観光価値は絶大。すぐそばにある大きな教会や華麗な洗礼堂、通路にお墓のある僧院などを見学して、ピサは斜塔だけではないということに気付いた。

紀元前にできたというこの町は、トスカーナ地方では最も古い歴史を持ち、アルノ川を利用して海へ出る優秀な海運国であった。九世紀からサラセンの海賊と戦い、十字軍遠征による活躍も、海運国として飛躍するきっかけとなった。東地中海の交易によって得た富が、こうして斜塔その他の建造物となったのである。しかし法王派の勢力下にあったジェノヴァやフィレンツェと対抗して、皇帝派にたったピサは十三世紀後半から衰退し、1280年のジェノヴァとの海戦によって大敗して後は、海洋国として復帰することはできなかった。

洗礼堂(入場券が必要)

高低の声を出して反響を聞かせてくれた。ドーム内の音響効果はすばらしい。

爆撃をうけた埋葬堂には死者の次第に腐敗する姿を描いたフレスコ画が残っていた。

ピサとフィレンツェ

フィレンツェはフランスの保護を得てローマその他と対抗したが、年貢も納めねばならず、貧困に苦しんで海への出口であるピサを支配しようとして失敗した。

シエナ

ドゥオモ

シエナの大聖堂は山上の街にある。低湿地帯に多いペスト(1300年代)の猛威を逃れるためであった。ここに白とグリーンの大理石で飾った、美しいドゥオモが建つ。ロマネスクからゴシックへの移行が見られる。内部にはニコラ・ピサーノの説教壇がある。ピサ洗礼堂の説教壇は六角形であったが、ここは八角形で構造も複雑になり写実的になった。説教壇はドメニコ派やフランチェスコ派の新しい宗教運動によって、寺院には民衆に呼び掛ける説教の場が必要となり、それが古代芸術の復興と結合したものである。

カンポ(貝殻)広場のパリオ祭

毎年7,8月、この広場で競馬競技が行われ、群衆でいっぱいになる。聖堂の柱に飾られた旗はこの時に使われる。広場の中に入ったらずっと外へは出られないだろうに、用をたす時はどうするのだろうと、いらぬ心配をする。

サポリと飾り皿

シエナの特産品である。サポリはナッツ類を蜂蜜でかためた菓子。昔は笛を吹き鳴しながら売り歩いたようである。それほど美味いとも思われない。名物とはそのようなものか。飾り皿は直径40p位で白と黒を基調としたシエナ独特のデザインで描かれており、どの土産店にもそれぞれ自慢の皿が飾ってあり、旅行に同行した娘が買い求め、現在ペンションに飾ってある。

アッシジ

城壁に囲まれた丘の上にある。掘れば幾らでも採れる大理石としっくいの家壁が続く。石畳の坂道を登る。

オリーブや葡萄が多い。おいしい葡萄酒とハムはどの家にも蓄えられている。ここの坊さんはそのような食品に恵まれて、うらやましい限りである。

聖フランチェスコと聖キアーラの教会が街の両端にある。世界の各地から多くの巡礼がやって来る。この日もインド人の修道女の団体が来ていた。

一人の軍人が神の恩寵をうけ、天使に会い、一切の財産を投げ捨て、その全生涯を愛と信仰に捧げた。

山上の街からはウムブリアの平原を見下ろす。

聖フランチェスコ教会

他の聖堂と違って質素な感じを受ける、イタリアでは最も古いゴシック建築。田上という日本人の修道士(愛と信仰と服従の三つの結び目を持つ紐を下げている)に案内してもらう。

内部には聖フランチェスコの生涯を表す連作のフラスコ画がある。小鳥にもやさしい愛を語りかけ、心を通わす姿。

11世紀以来、農業技術の進歩による生産力の増大は、余剰生産物を市場に溢れさせて貨幣流通を促し、商工業を活発化させた。商人の統治する都市国家が生れ、海港都市が隆盛した。カトリック教会は経済発展の最大の受益者となり、聖職者は腐敗堕落した。このような時、裸足にぼろぼろの衣を荒縄で括り、徹底して所有を認めぬ清貧の修道者の一群がアッシジに生れた。

フランチェスコ(1182〜1226)は豊かな毛織物商人の家に生れた。1198年領主の支配を打倒してライバルの都市ペルージアと戦った時捕虜となったが、帰ってから熱病を患い、癒えて教皇軍に加わったが、戦わずして帰る。神の神秘な声を聞いたのである。癩病院へいって財布を与え、父と絶縁し、倒れかかったサン・ドミアーノ聖堂を修復する。その説教は愛と平和で、一切の豊かさを認めなかったが、当時のイタリア人の心に斬新な響きを与えた。都市生活の豊かさは金銭の価値や利権を貴び、心が荒れて道徳が退廃する。市民は貧しく厳しい生き方を守る彼を聖人と称えた。その説教に感動した貴族の娘キアーラは家出し、妹、母たちを伴って修道女となった。

アッシジの聖者の名はイタリア中に広まり、その教団への入会希望が増えた。大きな組織を必要とする教会の内部は分裂し、運営は不能となった。1224年彼は孤独な隠棲の生活に入った。小鳥たちがその説教に聞き入り、祝福を受けた。長い断食の祈りを続けて、天使が舞い降りてくるのを見、恍惚の境地に陥り、聖痕の奇蹟をうけた。身体は衰弱し、目は見えなくなっていた。死の床にあって彼は修道士たちに祝福を与え、詩篇を唱えながら四十五年の貴い生涯を終えた。

2年後、その修道会は聖者の徳を顕彰するため、アッシジに大伽藍を建設することにした。墓前に額づくために巡礼を奨励組織しようという狙いである。下堂に遺骸を収めた石棺と祭壇を置き、上堂に聖人の生涯を描いた絵を巡礼団に見てもらうようにした。壁画がフィレンツェの名匠ジョットの手によって完成した。こうして彼は死後長く、カトリック教会の守護者となったのである。

聖堂の前に建つサン・ジョヴァンニ洗礼堂第二青銅門の28枚の扉を飾る浮彫りの作者は、1401年コンクールによって選ばれ、22歳のロレンツォ・ギベルティが製作した。課題は旧約聖書の「イサクの犠牲」。(愛児イサクを犠牲に捧げよと神に命じられたイサクが、苦悩の末愛児を山上に誘い、祭壇の前でその喉を裂こうとした瞬間、天使が飛来して止める)この天国の門こそ、輝かしいイタリア・ルネサンスの開幕を告げる最初の号砲であった。

ローマ

プラザ・グランドホテル着。コルソ通りに面した高級ホテルで、ドアを押すとすぐフロント、その奥のロビーのまるで宮殿のような豪華さにあっけにとられたが、泊った客室は狭くて見かけ倒しであった。

カルネバーレ(謝肉祭)

毎年コルソ通り(ポポロ(市民)広場からベネチア広場まで南北に走る全長1.5キロメートルの街路)を会場に、さまざまなイベントが行われており、かつては競馬が行われ、市民が熱狂した。

ヴァティカン市国

城壁をまわって裏の北口からヴァティカン美術館に入る。地下にサン・ピエトロの遺骸が眠る祭壇があり、内部の最も厳粛な場所である。

エジプトから持ってきたオベリスク前の広場から内部に入る。

スイスの衛兵が入り口を守っている。

システィーナ礼拝堂にはミケランジェロの壁画「最後の審判」天井画「創世期」がある。裸体の筋骨隆々たるキリストその他はブルーの絵の具で腰布を巻き付けているが、これは16世紀の反動的宗教改革によって行われた。それまでのローマは堕落退廃に落ちているとされたからである。

ミケランジェロのピエタ像(サン・ピエトロ寺院)

ローマ滞在中に制作された代理石像で古代彫刻探求期の傑作。キリストよりも若いマリアに独特の解釈がみられる。サボナローラの痛ましい処刑は、彼を慕うミケランジェロに深い痛手を与え、この像に悲しい追憶をこめて制作したという。

ミケランジェロ

1473年フィレンツェ共和国の官吏の父の家に生れた。絵ばかり描いていて、父から怒鳴られて育ったが、メディチ家庭園でコジモ・デ・メディチの孫でイル・マニフィコ(豪華な人)と呼ばれたロレンツォに認められ、その邸に寄宿した。当時メディチ家はフィレンツェ政治、ヨーロッパ文化の中心であった。新しいウマネジモ(人間精神の革新運動)の思想はこの館から発し、全欧に広がった。ミラノではサンタマリア・デレ・グラーツィエ聖堂の修道院の食堂に、レオナルドが「最後の晩餐」を描こうとしていた。ボルジア家は金貨と利権で教皇を獲得し、免罪符を濫発して教皇軍を組織し、教皇の子チェザレ・ボルジアが総指令となって教皇領を広げるため荒れ狂う。1492年スペインは国家を統一し、コロンブスを新大陸発見に送り出す。この年ロレンツォが没し、風俗の退廃堕落を糾弾するサボナローラの声が響いて、フィレンツェは急に暗くなった。ミケランジェロはその説教に傾倒し、メディチ家の義理に板挟みとなる。メディチ家の跡継ぎピエロは追放され、スペインとフランス軍がイタリアを左右した。サボナローラ死刑によって引き裂かれたミケランジェロの心は、十字架から下ろされたキリストの屍を抱いて悲しむ若き聖母のピエタ像に表される。服装にかまわず、人付き合いが悪く、他人を平気で傷付けることをいうミケランジェロは常に不幸で暗く、お洒落で美男子で愛想のよい紳士のレオナルドと対立した。性格のみならず、芸術観は全く異なっていた。両者は相手の天才を熟知しながら、軽蔑し合っていた。

1504年彼は筋骨隆々の若者ダビデの白大理石巨像を彫った。フィレンチェ政庁前のこの像はメディチ復帰を許さぬ共和国自由の象徴であった。新教皇ユリウスによってサン・ピエトロ大聖堂が整備され、ミケランジェロは苦闘しながらルネサンス絵画の金字塔ともいうべきシスティーナ礼拝堂の天井画を描く。1517年以後カトリック世界は分裂し、フランスとドイツ軍はイタリアを蹂躙した。1527年ローマはルター派狂気の軍団に略奪され、フィレンツェは滅亡に瀕したが、彼はサン・ピエトロ大聖堂の壮麗な円蓋を設計し、システィーナ礼拝堂正面の壁に「最後の審判」を描き上げた。神のように崇拝され、最高の栄誉に包まれながらもその魂は孤独であった。老境に入って始めて彼を理解してくれる、ベスカーラ侯妃ビットリア・コロンナに世を去られ、その悲しみをロンダニーニのピエタ像を彫って紛らしたが、すでに彼の目は光を失い、死(1564)の淵にさしかかっていたのである。

フォロ・ロマーノ

「フォロ」は公共の広場の意味。古代ローマの政治司法、宗教、商業の中心地だった。みごとな建造物がところ狭いまでに建てられていたが、西ローマ帝国滅亡後、中世1000年の間に廃墟と化した。 セウェルス帝の凱旋門から、聖なる道を望む。

コロッセオ

古代ローマの円形劇場。その古代様式はルネッサンス建築の手本とされた。コロッセオは下ドーリア式、中イオニア式、上コリント式の大理石柱が並ぶ。内部のグランドは元は木の床がはった舞台であり、下は猛獣の檻や剣奴の部屋になっていた。ここでローマ市民を熱狂させた殺戮のゲームが行なわれたが、歴史または人間性について種々の問題を提供する。404年残酷な競技は禁止され、ルネサンス時代以降は教会建築のための大理石を供出する場となった。

トレヴィの泉

多くの泉は広場の中央にあるが、これは貴族の邸の壁面を飾る。海神ネプチューンと馬を操るトリトーネ像からなるバロック様式。その名は(三叉路)からきているといわれる。近くの店でアイスクリームを買い、これをなめながら泉に背を向けて肩ごしにコインを投げ入れる。一個なら再びローマに戻れ、二個なら恋人と結ばれるという。それに従って200リラの貨幣を投げ入れたが、またここを訪れることができれば幸である。アイスクリームは6000リラ、ゆるくて美味くなかった。

スペイン階段

この名の由来は、広場の一角にある建物が元スペイン大使館であったからという。正面はオベリスクと教会。

ここに大勢の観光客が集まるのは、「ローマの休日」が原因と見ていいのだろうか。季節の花が飾られ、似顔絵描きが商売をし、屋台店もある。何の意味もないのに、皆ここに腰を下ろしてみて、おしゃべりを楽しんでいる。ローマはずいぶんとこの映画にお陰をこうむっている。

狭いヴェネツィアはいうまでもなく、ローマにしてもミラノにしても、代表的なイタリアの都市の通りはみな一様に狭く、石造の建物が隙間なく建ち、ドアを開けるとすぐ家の中で、玄関がない。ローマの有名なトップブランドの並ぶコンティッド通りでさえそうである。道路はひどい車の違法駐車で、一方通行が多いから、バスは常に遠回りしてホテルに行く。それは都市国家としての歴史が古く、近代的な都市計画が困難な事情によるものと思われる。

イタリア警官

警官の格好のよさはすばらしい。特に婦人警官はモデルかと思う位に美人が、広場の一角などのオートバイによりかかって、脚線美を見せている。

帰国して成田に降りた途端、極端な違いが目立った。比べると明らかに日本は極端なほど野暮な田舎者である。

八百屋

町中には屋台で野菜を売っている。ホテルの食事ではキャベツぐらいしかなく、果物はオレンジが美味かった。

イタリア旅行を終えて

未知の世界への遭遇、それはどれほどか人の目を肥やすものか知れない。西洋史を読んだだけでは生半可な知識に終る。目の当たりに接して見て始めて読書の理解が達成するものであることを痛感した。

しかしたった十日間、前後の飛行機を除けば実質七日間の海外旅行、それも主な都市の表面を通り過ぎただけで、何も分かるはずはないのだが、それでもガイドの説明をよく聞き、イタリアに関する本も何冊か読んだ。この旅行がなかったら、塩野七生の「イタリア人の歴史」の読書も有り得なかったろう。はじめは驚きと感激の連続であったことも、次第に理解が深まってきた。

今回はイタリア・ルネサンス期の教会建築、彫刻、絵画の見学が主であったが、これらはキリスト教(カトリック)の知識なくしては理解できない。彼等にとっては日常生活の中で血肉となっているものも、われわれにとっては初めて接するのである。キリスト教学習の必要あり。

海外旅行に不可欠なのは、年を追うにつれて衰える体力を維持することである。脚力を養い、健康を保って、よいコンディションのうちに終えるよう計画を立てなければならない。特に往復ごとに13時間を越える飛行時間は、体力だけでなく、資金力も蓄える必要がある。毎年60万を越える貯蓄を覚悟せよ。

イタリアはヨーロッパの中の一国である。イタリアを見ただけでヨーロッパは理解できない。今後イギリス、フランス、ドイツ等への旅行と学習が必須となる。