エジプト旅行。伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

エジプト旅行

エジプト旅行

1992年(平成4)1月19日〜10日間 67歳

カイロ博物館前

ベールをかぶったイスラム婦人の衣装はカラフルで珍しく、美しい。

カイロにはもちろん、ベールを脱ぎ捨てた近代女性は多い。しかし今やエジブトの婦人解放運動の目標は、一夫一婦制度の確立である。この日のでっぷり肥ったエジプト人のガイドは十三人の子持ちで、現在十四人目を製造中であるという。そうした子福者は多妻で豊かな収入に恵まれ、若い男たちにとってはかえって羨望の的だろう。それ故一夫一婦制度は男たちの賛成をなかなか得られないだろうし、女たちのベールも中年以後の容姿の衰えを隠すには好都合で、かえって私たち外国人にとっては魅力的でもあるのだ。

ここの中庭で写真を撮ろうとして下を向いたとたんに、眼鏡を落としてレンズを割ってしまった。しかたなくて、目を細めて見ようとする私の顔は、ぱっちり、黒々とした美しい目のエシプトの若者とは著しく対照的であったろう。日本人は細い目の人が多い。しかしエジプトの空はどこまでも青く澄んで、それを見つめて帰国し、検眼した私の視力はだいぶ回復していて、これは思いがけぬ拾い物であった。

モハメッドアリ・モスク

十九世紀モハメッドアリによって、カイロ南東の城塞の丘に建てられたアラバスター製のモスクはたいへん美しい。大きな丸天井、広いミナレット、外の広場に置かれた八角形の水道、すべてがすばらしい外観だ。カイロのエジプト人はメッカに巡礼せずとも、ここに来れば満足できるのではないかとさえ思われた。

しかし入り口で靴を脱いで中へ入り、目が次第に暗さに慣れてくるにつれて、床にしいた赤い絨毯のひどい汚れが気になって、座って何度も額をつけて礼拝するのは不潔すぎはしないか、という感じがした。外に水道があるのはもっともで、イスラム教徒の汚れた手足を清めさせるには不可欠の設備なのだろう。しかしよく洗わないで入るせっかちな者もいるに違いない。アッラーの神は清浄さを要求しないだろうか。それともそう思うのは日本人の信仰の薄さや、潔癖感のせいなのだろうかといったんは疑ったが、イスラムの教徒たちの厚い信仰は、絨毯の汚れなどまったく問題にしていないのだろうと思って、納得することにした。

ギザのピラミッド

遂にあこがれのここへ来た。ピラミッドに向かい会える嬉しさ、うちふるえる感激、何とも言いようがなくて、ただただ黙って見上げるのみ。

第一王朝に初めて国王のマスタバ墳墓ができてから300年たって、第三王朝の階段ピラミッドから100年後、第四王朝(紀元前2540)ギザのビラミッドが建設された。各辺は正しく東西南北に面し、平均2トン半の石塊230万個を要したという。内部から北斜面に通じる側道は正確に北極星を指し示す。いかに当時の天文、幾何学、土木工学が優れていたか。

以前のピラミッドはすさまじい盗掘に会った。それを恐れて、墓所は秘して作ったはずなのに、玄室には租削りの石棺のほか何もない。しかし粗末な石棺は盗掘者の目をごまかすためのもので、内部のどこかに真の墓と宝が隠されているのではないか。その真偽は石をすべてはぎとってみなければ確かめられない。

ヘロドトスによれば、10万人の人夫が年に3ケ月働き、作り終えるのに20年もかかったという。そして本来は高さ152mあったのに、今は147mに減っている。これは表面を覆っていた化粧石が他のピラミッドにはぎとられたためという。死後は神となるはずのファラオの絶対権力を以てしても、防ぎようのないこの事実が、世の真実の何かを物語っている。

ピラミッドの建設は洪水期の農民の救済にある、というのは本当なのだろうか。救済された農民ははたして王に感謝したのだろうか。莫大な財宝が隠されたと知ることによって、密かな盗掘の野望に燃えたに違いない。感謝の念を確かに与えはしただろうが、逆に盗みを教唆した点で、エジプトは実に5000年にわたる非道徳教育を与え続けてきている。盗みもまた偉大なるエジプトの歴史的遺産なのだ。

アスワン・ハイダムの成果

「ピラミッドは、たった一人の死者のために数千人が作りあげたが、20世紀のピラミッドは、数千人の生者のために築かれる」…ナセル大統領はエジプト革命の成否を、アスワン・ハイダムの建設にかけて、こう言った。

米英がいったん約束したこのダムの工事建設援助を一方的に取り消した時、エジプトの憤りは大きかったが、ナセルはその仕返しにスエズ運河会社を国有化し、その利益でダムを作ると宣言して、エジプト人のナショナリズムを大いに高揚させ、ソ連の技術導入を得て1968年その主要堤を完成し、南北500キロに及ぶ長大な人造湖が出来上がった。

ナイルは古来、そこに住む者の命の水であった。エジプトは数千年来その洪水を頼みとして、変わらぬ悠久の歴史を繰り返してきた。しかしあまりにも貧困なこの歴史を止め、一躍して近代国家に生まれ変わるためには、どうしてもダムが必要であった。

国土面積のたった3%しかない耕地を増やし、電力を基とする工事国家に発展しようとするエジプト繁栄の願いは果たしてかなえられたであろうか。結果として、生活は向上し工業化への道は敷かれたもの。

  1. 作物収穫の増加を人口の爆発的増加が追い上げた。
  2. ナセル湖に上流の養分を含んだ泥が沈殿し、下流の耕地には流れてこないので、農民は肥料の購入が必要となった。
  3. 三角洲の河口付近では上流からの河水の流量が減少して海水が侵入し、塩害を被った。

これらの得失はどう考えるべきであろうか。エジプト繁栄への道は依然として険しいと言わねばならない。

スカラベ(たまおしこがね)

古代のエジプトはこれにケペラ神の名を与えた。この神は太陽の運行を司る。丸い糞を転がす習性を、太陽が東から西へ大空を巡るのになぞらえた。神殿や古墳から多数発見されるこのスカラベは、花崗岩や紫水晶、碧玉等で作り生命の安定、幸福を斎いこめた自分の名、神名等を刻み、装飾、指輪等に使ったのである。

ルクソールのカルナック大神殿の背後には、直径1mの円柱の上に花崗岩で刻んだ大スカラベがあり、この周囲を何回か回れば、幸福な結婚や離婚を得ることができるとかいうので、多くの観光客が喜んで回っていた。本当にその信仰が実現するかどうかはともかく、半分は興味だけで。

しかし虫に神性を託する思想には簡単に従えない。まして動物の糞を大切そうに転がして蓄え、食料とする虫が、なんで神となり得よう。だからこの虫は何時になっても「糞ころがし」と言ってよい。「たまおしこがね」などという気にはなれない。

イシス・ホテル(ルクソール)

砂嵐前の3月のエジプトは適温で雨が降らない。他国の観光客も少ない。

この4つ星のイシス・ホテルは、日本人観光客が一斉に風呂に浸かろうとして蛇口をひねるため、湯が出なくなるといった欠点を除けば、客室は広くゆったりとして、施設も立派である。窓の外にはナイル川がゆったりと流れ、白い帆船や、3階だての観光客船が行き来している。その眺めは最高で飽きることがない。

しかし食事は上等とはいえない。パンや野菜は堅く、肉も旨くない。コーヒーも置いてない。料理や菓子は甘すぎる。三度々々同じものばかり並び、自由に選択すればよいので、しまいにはオレンジだけ選んで食べることにもなった。エジプトの食生活は貧しく、日本人は美味しい食事に慣れすぎているのだろうか。

中庭のプールでは、でっぶり肥った欧米人がゆっくりと甲羅を干し、子供たちは暗くなるまでクリケットを楽しんでいる。我々日本人だけは食事をさっさとすませ、毎日せっせと観光に励み、朝は4時起きすることもある。金持ちとなった中流日本人のこうした姿は、外国人にはどう映るのであろうか。

王家の谷

テーベ西郊、ナイル対岸の丘に、テーベの第16王朝以後の諸王は、その岸壁を利用して神殿と墳墓を営んだ。王たちは盗掘を恐れ、葬祭殿と切り離して、自然のビラミッド岩山を仰ぐ奥深い涸れ谷に、長い横穴式のスローブや階段を通る墓を造営した。入り口を秘し、落とし穴、偽の扉、頑丈な石棺等で防衛したにも拘らず、19世紀半ば以後に考古学的発掘が行われた時、これらはすべて盗掘されていたことが分った。

ハワード・カーターは初め画家としてこの地に来ていたが、当然そこにあると知っていたにも拘らず、盗掘を免れていたツタンカーメン王墓の発見に興味を持ち、カーナボン卿からの資金を得て、6年目(1922)についに発掘に成功した。入口は道路の真下にあった。16の階段の先に分厚い石の壁があり、これを壊して中へ入った時、規模は小さいが、余りにも豊富で豪華な副葬品に、エジプト王の富がいかに巨大なものであることかを知ることになった。

この時多くの考古学者が亡くなった。反英感情で殺されたとも、墓内に籠るカビのためにとも、あるいは三千年来の墓を暴いた呪いによるものとも噂された。

しかしここに居て、身体の芯からぞっとするような、何ともいえぬ恐ろしい底冷えを覚えたのは、私だけだったろうか。そこは見渡す限り緑一つ目に入らぬ、うら寂れた白い谷であった。午後3時だというのに、陽は早くから陰り、うそ寒い風が細かに砕けた岩の白い砂埃を巻き上げていた。

お土産

ギザのピラミッド付近で、物凄い押し売りの攻勢に負けて、妻は買ってもどうにもならぬ土産物を買わされた。金属製のお盆と小さなピラミッドの模型だった。千円である。帰国してから、混雑する乗り物の中で、「そんなもの買うからだよ」と欧米人が怒鳴るCMを見て、日本でもやはり同じなのかと思った。

以前中国では、ガイドが明らかに土産屋のお先棒を担いでいるとわかって、嫌な感じを抱いたことがあったが、観光客の中でも日本人は確かに狙われている。

カイロのパピルス屋に案内されて珍しさに、自分たち夫婦の名入りパピルスをつい買ってしまった。大判のパピルスは、90ドル、小さいのは15ドルしたと思う。この時は負けさせることを知らなかったので、今考えてみれば高い買い物をした。

何も「知らぬ(日本人)は(エジプト人の)仏」である。

ガイド

荒井洋子さんは、エジプトの有名なガイドである。長く垂らした髪や白粉けのない顔、そして何よりもつっかけ草履を平気で履いているのが特徴的だった。「なんでそんななりをしているの」と聞くと、「付き合うのは馬車引きくらいだから」という答えが返ってくる。帰る時に駅まで見送りに来てくれた。孤独そうで、気の毒な感じがしたから、持ってきた梅干しをビンごとあげ、他の人も美味しそうな煎餅など渡したが、その胸に燦然と輝いていたのが、楕円形の金のカルトゥシュであった。

カルトゥシュはエジプトの遺跡ではどこでも目に付く、ヒエログリフの名を刻んだネックレスである。この装飾品は18金だから、それほど高価ではなく、エジブトではもってこいの土産物と思われ、みんな我も我もと買い求めた。洋子さんは最後まで値下げの交渉に付き合ってくれた。

その時、宝石屋の若い店員がブレゼントと言って、銀色の小物を私にくれた。礼を言って受け取ったが、相手はどうも釈然としない様子である。ブレゼントの意味をガイドにしきりに聞いているようだったが、彼は好意や感謝のつもりではなく、交換の意図であったのだろう。押し売りがしきりにプレゼントといって品物をおしつけるのも、何かしかの金品を要求する行為なのだ。それでやむを得ず、とっさにあげた私のプレゼントは、なんと、神社などでよく売っている、両面木彫りの福鈴の、あやしいキーホルダーであった。

子福者を貴ぶ土地柄とはいえ、若いイスラム教徒はこれをどう思っただろうか。少々気がかりであった。

ルクソールのスーク

ルクソールには2泊した。最初の日に市場に行ってみようとして馬車に乗った。Mさんが「賃金は5(エジプト)ポンド」と教えてくれた。馬車屋のお兄さんに3ボンドと言ったら、上機嫌で乗せてくれた。しきりに足元の汚い絨毯を指して、何やら言いながら愛想を振りまいている。わけがわからないまま「イエースイエース」と答えたら、長い竹の鞭を道路にピチピチたたきつけて颯爽と馬を走らせる。エジプトの馬は小柄である。餌は十分にやっているのかしらと気の毒に思ったが、鞭で脅さないと馬はすぐに速度を落してゆっくり歩いてしまうのだ。

馬車屋はスークに行ってくれず、絨毯屋の店先につけた。絨毯屋の親父(おやじ)がすかさず出てきて大声で、「ノープロブレム、ミールダケ、ミールダケ」と言う。そうはいってもいかに危ないことかは知っている。どんなに断ってもきかない。店の中に入らせ、さっと小さな絨毯を広げて今度は「600ドール、ヤスーイ、ヤスーイ」の連発である。ノーノーと言って懸命に手をふったら、500ドル、300ドルと値を下げた。しかし買う気はないので、やっとの思いで振り切って馬車に乗る。馬車屋は諦めきれない様子で200ドルではどうか、揚句の果てには「ハウマッチ」つまり「いくらならいいのか」である。とんでもない。無理に押しつけて買わされるのは絶対ごめんだ。不愉快になって、「ゴーツー、イシスホテル」とどなったら、馬車屋は不機嫌な態度で走らせながら、往復したから20ポンドよこせと言う。ホテルまで行かずに近くで止めてしまった。10ポンド渡したら、黙って受け取った。

馬車屋は悪いことをしたと思っていないのかもしれない。こちらが言葉が分からず、適当に頷いたから、絨毯を買わせようと案内したのだ、と好意的に取っておこう。私たちの国際的に慣れぬ面も反省しなければならぬ。外国、とくにアラブの世界に来たら、遠慮しないで物怖じせず、嫌なら嫌と大声で叫ぼう。エジプト人は懸命に「よい鴨の日本人が来た」と喜んで商売に励んでいるだけなのだろうから。

ルクソールのサフラン

ルクソールの二泊目はガイドに教わって今度は本当にスークに出かける。胡椒を買うのが目的である。用心して、仲間の0さんYさんと相談して歩いた。暗い道端で板を並べて胡椒を売っている。赤いのはサフランだという。一緒にしてうんと負けさせた。近所のお土産にちょうどよい。しかしよく考えたら、サフランはたいへん高価なはずだ。それが10ポンド。約500円である。そんなに安くてよいのかと少し不安になった。

後にサフラン飯を炊いてみて分かったのだが、これは最初にサフランの花粉を取った後の残りの雌しべらしい。少々多めに御飯に入れても黄色くならない。安いのは当然であった。しかしサフランはサフランに違いないから、騙したことにならない。しかしこちらにすれば騙されたと同じことで、やはり「知らぬが仏」であった。

絨毯学校の子供たち

絨毯のスクールという所へ連れていかれた。小さな子供から青年まで、大きな絨毯を立てて織っている。子供たちは7,8人が横に並んで、くるくると手を動かし、器用に編んでいる。我々を見て、横のベンチを指し、座れ座れとしきりに動作を繰り返す。その顔は可愛らしいこと限りない。座った者も居たようだったが、子供たちは「何かよこせ」という信号を送っていたのだ。バスの中でもらった飴を女の子にあげたら、「隣の子にもあげて」という動作をした。飴は一つしかない。私はポケットに入れていたパンの包みを出した。するとその中の年長の男の子が素早く受け取って「しめた」という顔をした。犬がいたらやろうと思って、汽車での朝食を食べずに持っていたのが、そんなの貰ってもどうなのだろう。誇り高い民族が相手だったら気を付けなければならないのだが、エジブトはバクシーシーの国だから、気楽にものを受け取る。こちらはパン一個でも捨てるにはもったいないと思いながら持て余していたから、安価な満足感に浸れて嬉しい。

絨毯を買う

絨毯スクールの二階は店になっていて、沢山の絨毯が積んである。店員が素早く寄って来て、持って帰るに適当な大きさの絨毯をいくつか広げてみせる。ラクダの毛というのがなかなかいい柄である。前に中国に行った時は、買う気になれなかった。今回は砂漠にラクダが多い国だから、何となく玄関に置くようなものをと買う気になる。複雑な柄のは、375ドルと札が付いている。妻は「もっと簡単な、ラクダの絵柄のを」と小声で言う。店員は「ハイクオリテイ」と言っている。妻はまた300ドルと小声で言って横を向いてしまった。普段は気性の強いはずの人なのだが、どうしたわけか気弱である。店員が「フレンドプライス」と言って350ドルを提示した。どうしようかためらっていると、仲間の0さんとYさんが来て、「もっと値切れ、値切れ」と励ましてくれた。そこで「ノーノー」と買うのを止めるふりをしたら、店員が上役らしい人と相談しに行って、330、さらに320ドルまで下げた。0さんが「ためしに310と言ってごらんなさい。それで駄目だったら、315にすればいいのよ」と知恵を貸してくれた。まけさすのが上手な人もいるものだ、そこで最後とばかり「310なら買う」と言うと、いとも簡単に、「オーケー」である。拍子抜けがした。300ドルでも良かったかもしれない。しかし何か勝ったような気がした。日本ではまかすなどしたことがないから、実に面白くて気持がよかった。しかし実際は高かったのか、安かったのか、分らない。310ドルは、当時の日本円で38,400円である。我が家の玄関にずっと敷いてある。

ルクソール神殿の公衆便所

言いたくはないが、年を取ると小便が近くなってあまり我慢できない。それで用心して、どの見学の場合も早めに用をすませてきた。この神殿でもそうしようと思って見ると、入り口の向こうにそれらしい所がある。しかし気をつけなければいけないことが一つある。それは入り口にだれか立っていないかどうかということである。

私はそうしたエジプト人をバクシー君と称しているのだが、エジプトではたいてい便所にこのバクシー君がいて、扉を開けてくれたり、手洗いの栓をひねってくれたり、手拭きの紙を取ってくれたりする。そうしてくれなくとも、手があるから誰でも自分でできる。それをあえて身体障害者か、殿様みたいに扱うのは、バクシーシをほしいからである。バクシーシとはコーランの教えで、「富める者は誰でも貧しい者に施しを」ということなのだが、体の良いチップの要求である。私は最初何も知らずにいて、空港のトイレに箒を持った掃除夫みたいな、背の高い男がいて、水を出そうとするとさっと蛇口をひねり、紙を取ろうとするとその前に取って渡してくれて、エジブトには変な人が居るものだと思ったが、その時には知らん顔して出て来てしまった。

しかしそうと分った後は、こうしたやり方でチップを要求するのはけっしていい感じがするものではない。困難なことをやってくれたのならともかく、頼んでもいないのに余計なことをして、(その報酬をよこせ)というのは出過ぎた行為である。それは親切の押し売りで、チップの要求は乞食行為のごまかしに過ぎない。イスラム教はこうしたバクシーシを擁護するのだろうか。もしそうならイスラム教はインチキ宗教である。心あるエジプト人はこんな乞食行為を野放しにして何も恥じないのだろうか。エジブト政府は外国人に恥をさらして平気で居られるのだろうか、おかしな国もあるものよと、よくよく思った。

このルクソール神殿にはそれらしい者が見当たらないので安心して中へ入ろうとすると、陰からさっと出てきた。やはり隠れていたのだ。中は狭くてたいへん汚い。トイレなんて言えない、便所である。小便器の朝顔に新聞紙がいっぱいつまっていて、使えない。それくらい綺麗にしておいてくれればいいのにと思うが、エジプト人は怠け者のくせにバクシーシだけ要求する。さてやはりチップを出さなければと思って財布をみると、都合よく25ピアストル(10円)の汚い紙幣がある。(1ピアストルは1ポンドの100分の1、金属貨幣を作らないこの国では25ピアストルが最小額らしい)その汚さといったらちょっとやそっとではない。筆舌に尽くし難いという言葉があるがまさにその通り、すごく汚れてくたくたになっている。お釣にくれるから仕方なく財布に入れるが、早く始末したい。だれかピンセットでつまみたいと言ったが同感である。財布から早く除いて気持よくなりたいので、小指で摘んで渡した。こんなものを貰って嬉しいだろうか。またそんなものまで貰わねばならないほど貧乏なのかと、日本人の我々は余計なことまで思ってしまう。

ルクソールの神殿はエジプトが世界に誇るすばらしい文化遺産であろう。日干し煉瓦作りの、小さくて汚い便所とバクシー君はどうにかならないものなのだろうか。それはエジプトの名誉回復のために、どれくらい役立つか知れないのに…。

最後の失敗

ルクソールからカイロへ帰る立派な鉄道の中で残念な失敗をしてしまった。ボーイにうながされて、不注意にもジュースに氷を入れるよう指示してしまったのだ。この氷が危険極まりない水でできていることに気付かなかった私の知識の足りなさで、帰るまでひどい下痢に悩まされ、途中立ち寄ったアテネの美術館もアクロポリスの神殿も、ほとんど無駄になってしまった。「エジプトの氷はナイル川の水で作ってある」。偉大な古代文化は安易に近寄ることを許さない。私は以後特に途上国の海外旅行には薬が不可欠であることを肝に命じねばならなかった。