伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回は「愛と義」の話、世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け・・・2014年4月10日没

愛と義

愛と義

ドラマ「天地人」を見終わって、NHKはその狙いの一つに、直江兼続の「愛と義」の精神を、徳川家康の「力による平和」と対比するよう試みたのではないかと感じる。

豊臣秀吉は絶大な権力によって朝鮮を征服しようとした。そのためどれだけ多くの日本人が迷惑を被ったかしれない。権力欲というものは止めどがないらしく、徳川家康も豊臣を滅ぼして、「力による平和」の幕藩体制を打ち立てた。この権力には上杉はもちろんだれも勝つことができなかったから、矛盾を含んだ強い身分制によって固められた江戸時代三百年の平和体制が維持された。その無理な平衡は破れ、外様大名を初めとして全国から手痛い報復を受けることになる。徳川家はまた御三家の内部(水戸藩)からも尊王攘夷論を生んで、精神的に崩壊せざるを得なくなっていったのである。

一方「力による平和」に屈服せざるをえなかった上杉の米沢藩は困窮したが、兼続は藩祖から受け継いだ「愛と義」による生命尊重の方針を貫いた。武士も農民と一体となって困難に耐えて生きる道を求めた。家臣の二、三男は農民と共に働き、米の増産に励んだ。中興の祖、上杉鷹山は米沢織を特産品として奨励し、漆(塗料)の生産に励んだ。しかし幕末にはやはり会津や他の東北諸藩と同じく、薩長藩閥政府の支配に再び屈する(藩士雲井龍雄の叛)。この時「愛と義」の精神はどちら側に多く認められただろうか。 関ケ原から大坂夏の陣に至る戦乱の間に多くの兵士の命が奪われた。死者の多くは領主に駆り出された農民である。この時こうした同胞の悲惨な事実は二度と味わいたくないと願ったのが当時の日本人の偽らぬ心情であったろう。しかし「力」による圧力は平和への願いを押しつぶし、悲惨な内線を経て明治維新の新政府が樹立し、また新たな戦争の火種を残すことになる。日本は原爆の悲惨な洗礼を受けて太平洋戦争に敗北し、アメリカに従属する道を選んだ。

明治維新に際して、福沢愉吉は自立した一個人として正しく生きようとする誇りや願いによる独立自尊の精神を説いた。権力に屈して見せかけの平和を維持するのではなく、近代人としての新しい生き方を尊重したのである。しかし世界の平和を力によって維持していこうとする超大陸アメリカに同調する考え方の中には、危険な方向が含まれていることを感じずにはいられない。

我々にとってイスラム教国の一部には、どうにも理解しがたい一面がある。アメリカは「力」による平和への回復を図ってベトナムで失敗した。その試みはイラクでも失敗し、今またアフガニスタンで力による平和の回復を計って失敗を重ねようとしている。 自爆テロは止むを得ざる方策の一つなのだというが、われわれにはこうした「目には目を」の思想は決して平和への願いとは考えられない。

今日本は富の偏在がありながらも、世界の中では有数の富みを誇る国の一つともなっている。金さえあればどうにでもなるような自由がある。しかし一方で自給率はひどく低く、その産業はアメリカに頼らざるを得ない。いったんアメリカが傷つけば日本はすぐにひどい打撃を受けることになるのである。

それだけではない。残念ながら「日本は戦争に負けた。しかし奴隷になったのではない」ということを白洲次郎は言っている。われわれは負けた結果、主人の顔色を伺う奴隷にはなりたくないものであるが、沖縄の基地は政権交代してもなお解決できない日本の癌となっている。日本に多くあるアメリカの陸空軍基地、ことに沖縄は基地の宝庫である。その基地に働く労働者の賃金は日本人の税金でまかなっている。(思いやり予算)この現状は日本人の誇りをひどく傷つける。日本はとてもアメリカと対等の独立国であるとはいえない。かつて誤った思想ではあっても、攘夷論に燃えたわれわれの祖先はこのことを知ったら何と思うだろうか。

痩せても日本人としての誇りを失うことなく生きることを願うか、他に頼ってでも楽しく生きることを願うか、われわれはよく考えて選ばねばならない。選択は自由であるが、今政権交代して自由な選択を任されることができるようになった時、一人一人の胸の中に賢明な生き方を取ろうではないか。われわれは子孫のために百年の大計を計ることが必要である。「愛と義」の生き方を貫き、そして「友愛」の精神思想を尊重していくことができるか、二度と危険な戦争に陥りたくないならば、われわれはここで重大な決心をしなければならない。政府の決定にばかり頼って、自らの世論の盛り上がりのうすい現状は、平和慣れした現代日本人の大きな欠陥となっている。

2009/12/15